1883年(明治16年)1月5日
岡山県後月出部村に阪田紋三の五男として生まれる。
1897年(明治30年)14歳
広島県呉市に出て、兄・斉次郎の金属文具工場を手伝い始める。
1904年(明治37年)21歳
日露戦争に従軍、終戦後、戦功により金鵄勲章を受章。
1905年(明治38年)22歳
友人の将校から英国留学土産に万年筆をもらう。~万年筆との出会い~
「万年筆というものを生まれて初めて見た時の心のときめきは、言葉で言い表せないほどだった。」
1911年(明治44年)28歳
呉市稲荷町にセーラー万年筆の前身・阪田製作所を創業。日本初の14金ペンの製造に着手。
※写真:左
創業当時の呉市稲荷町工場
(中央のハンチング帽の男性が阪田久五郎 当時28才)
1917年(大正6年)34歳
呉市浜田町に工場を新設、万年筆の完成品製造開始。
呉市浜田町工場全景と阪田久五郎所主
1926年(大正15年)43歳
天皇陛下(当時 摂政宮)民間産業奨励のため、浜田町工場をご訪問される。
1932年(昭和7年)49歳
万年筆製造部を株式会社組織とし、社名を「セーラー万年筆阪田製作所」とする。専務取締役に就任。
※写真:左
呉市の別荘・観音荘庭内を散策する(昭和30年頃)
1939年(昭和14年)56歳
広島県安芸郡大屋村(現・広島県呉市天応町)に天応工場新設。
1940年(昭和15年)57歳
取締役社長を退き、取締役会長に就任。
1955年(昭和30年)72歳
産業振興に尽くした功績により、藍綬褒章を受章。
1961年(昭和36年)
5月9日逝去(満79歳)
正六位、勲五等、雙光旭日章を授与される
日本の夜明け明治から、宇宙時代開幕の現代迄、私の人生八十年の中で、万年筆と共に歩んだ五十年、
顧みて夢のような気がします。
今や、日本は世界三大万年筆生産国(日、独、米)の一つとなり、
セーラーは、お陰さまで日本の代表万年筆の一つになりました。
十四才の時、兄・斎次郎を頼って岡山から呉に出、
(その8年後)日露戦争の直後と記憶しますが、英国留学から帰った
友人、白髪長三郎君が土産に持って帰って見せてくれた、万年筆というものを生まれて初めてみた時の
心のときめき。
之を自分の手で造ろうと決意して、旋盤を手で廻していたような幼稚な時代に苦心惨胆した創業当時…
呉軍港にちなみ、又、島国日本は海を越えて発展せなければと、セーラー万年筆と命名し、小さな工場で苦心して造った万年筆を信玄袋に入れて売りに行き、思うように売れなかった時の苦しさ。
<中略>
戦災で、呉の万年筆とインキの工場が焼失し、百五十名の役員、従業員でなけなしの材料を寄せ集め、
ガタピシの機械で、万年筆、インキの当社本来の事業再建に、終戦後の食糧難にすき腹をかかえながらも
意欲だけは旺盛に、順次、企業の近代化へと脱皮を試み、東京に本社を移して企業視野と市場の拡大に
努めて参りました。
<中略>
人間の知恵と力と協力とその積上げのすばらしさ。そして、セーラーをここ迄育てて下さった内外すべての
人々に対し、只感謝の念で一杯であります。
五十年目のセーラーをこの眼でみることのできる幸福をほんとうに有り難いことと存じます。
昭和36年5月 取締役会長(当時) 阪田久五郎
「セーラー50年抄史」より ※原文のまま(一部補足あり)